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#007

近代絵画の形成

19世紀後半~ ルネサンス以来の西洋芸術のアカデミックな規範の解体

19世紀後半に入ると産業革命の浸透、資本主義社会の発達、科学技術の進歩により都市人口の大幅な増加と階級対立の激化が見られるようになり、社会全体が大きく変動した。

遠近法や明暗法に基づく現実の再現(模倣の原理)は、ギリシャ・ローマ文化をモデルとした古典的な美の理念に根ざしています。これに対して、反アカデミズム(反サロン様式)として新たな造形原理の模索が始まりました。その結果、古典的規範の外部へと美術表現が広がっていきました。

ゼードルマイヤ(1896-1984)

ハンス・ゼードルマイアはオーストリアの美術史家で、中心の喪失(Verlust der Mitte)の概念で特に知られています。彼の理論によれば、近代芸術は伝統的な形式や価値の「中心」を失い、その結果、混乱と不安定さが生じたとされています。ゼードルマイアの研究対象は主に建築と絵画であり、特にバロック建築やバロック絵画の研究が高く評価されています。
彼の学問的業績には、第二次世界大戦中のナチスへの協力という問題が影を落としています。戦後は公職追放の処分を受けましたが、その後ウィーン大学で教鞭を執りました。

引用:artscape

ポスト印象派(1880-1905頃)

ポスト印象派は、印象派の傾向を受け継ぎつつ、それを出発点として批判的に継承しました。厳密な形態の復活や、原始的な題材、激しい色彩の導入など、独自の特徴を生み出し、20世紀美術の先駆けとなりました。形態や色彩、思想の面でも、19世紀美術とフォーヴィスム、表現主義、キュビスムなど20世紀美術の橋渡しをしたといえます。
印象派の光と色を意識しつつ、物体の造形への意識が希薄になる傾向を批判的に捉えました。そして、造形世界を構築し、視覚認識の根本的な変革を目指しました。

【引用:美術解説】ポール・セザンヌ「ピカソやキュビズムに影響を与えた後期印象派の巨匠」

「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」 ポール・セザンヌ

ポール・セザンヌ(1839-1906)

セザンヌは、伝統的な絵画の約束事にとらわれず、独自の絵画様式を探求しました。最終的には、ポール・ゴーギャンやフィンセント・ファン・ゴッホと並び、3大後期印象派の一人として美術史に名を残しました。マティスとピカソは、セザンヌを『近代美術の父』と称しています。セザンヌは『知覚の真理』を追求し、複数の視点から美術的表現を探求しました。一つの対象でも、わずかに異なる表現を同時に鑑賞者に味わわせる方法を模索していました。このセザンヌの美術思想は、後にキュビスムへと受け継がれました。

引用:Wikipedia

フォービズム(色彩の解放と自立)(1905-1910頃)

引用:アンリ・マティスとは?「色彩の魔術師」と呼ばれた画家の生涯と代表作品について分かりやすく解説!

フォービズムは20世紀のはじめにフランスで起こった絵画運動で、野獣派や野獣主義、フォーブとも言う。後期印象派を代表する画家、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌらの作品に刺激された当時の若い画家たちが、原色を主体とする激しい色彩と大胆な筆づかいで、荒々しくも力強い作品を描いた。
1905年にパリで開催された展覧会サロン・ドートンヌで、強烈な色彩と激しいタッチの絵画が展示されている一室に飾られていた彫刻を見た、フランスの批評家ルイ・ボークセルが、「野獣(フォーヴ)の檻の中にいるドナテロ(イタリアの彫刻家)のようだ」と評したことが、フォービズムという通称の由来とされている。

フォーヴィスムはキュビズムのように理知的ではなく、感覚を重視し、色彩はデッサンや構図に従属するものではなく、芸術家の主観的な感覚を表現するための道具として、自由に使われるべきであるとする。ルネサンス以降の伝統である写実主義とは決別し、目に映る色彩ではなく、心が感じる色彩を表現した。世紀末芸術に見られる陰鬱な暗い作風とは対照的に、明るい強烈な色彩でのびのびとした雰囲気を創造した。

アンリ・マティス(1869-1954)

マティスは色彩表現を現実のものから解放した人物。色をどんどん単純化させていき、色彩の純化を追求していった結果、晩年のように最終的には切り絵という表現にたどり着いた。

引用:Wikipedia

キュビズム(分析から統合へ)(1907-1914頃)

引用:「キュビズム」とは?有名な画家と代表作品を分かりやすく解説

20世紀初頭にパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックによって創始され、多くの追随者を生んだ現代美術の大きな動向である。それまでの具象絵画が一つの視点に基づいて描かれていたのに対し、いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収めた。
キュビズムは、ブラックが描いた風景画が「小さなキューブ(立方体)による絵のようだ」と、評されたことが語源といわれており、目指すものに共通性を感じたピカソとブラックは共同で作品を生み出し、キュビズムを造りあげていった。キュビズムは1911年のアンデパンダン展への出展により知れ渡るが、第一次世界大戦前後に収束を迎える。しかしその後もデザインや建築、彫刻など、現代にも多くの影響を与え、20世紀美術の土台となった様式といっても過言ではない。

ジョルジュ・ブラック(1882-1963)

ブラックは初期の作品でフォーヴィスムの影響を受けていたが、1907年頃からキュビズムへと移行し始めた。キュビズムは形状や視点を抽象化し、従来の一点透視法を放棄してオブジェクトを多角的に捉えることを特徴としている。

ブラックの作品は、ピカソの作品と並んでキュビズムの発展に大いに貢献した。彼の影響力は絵画だけでなく、彫刻や版画、さらには装飾美術にも及んだ。

引用:Wikipedia

パブロ・ピカソ(1881-1973)

ピカソはキュビスムの創始者として知られています。移動に伴う時間の差から生じる複数の視点に関心を持っていました。生涯で約1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻や陶器を制作し、最も多作な美術家とされています。ピカソは作風がめまぐるしく変化したことで有名で、それぞれの時期が「青の時代」「薔薇色の時代」「アフリカ彫刻の時代」「プロトキュビスムの時代」「総合的キュビスムの時代」などと呼ばれています。

引用:Wikipedia

ダダイズム(1916-頃)

引用:Wikipedia: ダダイズム

ダダイズム(Dadaism)は、第一次世界大戦中の1916年、スイスのチューリヒで誕生した前衛芸術運動である。戦争によって理性や進歩を信じてきた近代文明そのものが破綻したという認識のもと、ダダは従来の芸術観や価値体系を根本から否定する姿勢を取った。彼らにとって、整った美しさや技巧を追求する芸術は、現実の暴力や不条理に対して無力であり、むしろ欺瞞的なものと映ったのである。 ダダイズムの特徴は、「反芸術」「無意味」「偶然」「ナンセンス」「挑発」といった態度に集約される。詩の朗読に意味のない音声を用いたり、日常の断片を無秩序に組み合わせたりするなど、論理や秩序を意図的に破壊する表現が多く見られた。これらは混乱を楽しむためではなく、社会や芸術制度が前提としてきた価値観そのものを揺さぶるための手法であった。 ダダは特定の様式や技法を持たない運動であり、絵画、詩、パフォーマンス、コラージュ、出版活動など、多様な表現を横断して展開された。トリスタン・ツァラ、ハンス・アルプ、ヒューゴ・バルらを中心に、ベルリン、パリ、ニューヨークへと広がり、それぞれの地域で異なる性格を帯びながら発展していった。 ダダイズムは短命な運動であったが、その影響は極めて大きい。芸術を美や技巧から解放し、態度や思想、問いそのものを表現とする考え方は、その後のシュルレアリスムやコンセプチュアル・アート、現代美術全般の基盤となった。ダダは破壊で終わる運動ではなく、新たな芸術の可能性を切り開く起点であったと言える。

マルセル・デュシャン(1887-1968)

マルセル・デュシャンとダダイズムは、20世紀美術において芸術の前提そのものを問い直した、極めて重要な関係にある。第一次世界大戦前後、合理性や進歩を信じてきた近代社会が戦争という大量殺戮を生み出したことに対する強烈な不信感から、ダダイズムは誕生した。ダダは、理性、秩序、伝統、そして「芸術は高尚であるべきだ」という価値観を否定し、無意味、偶然、ナンセンス、挑発を武器に既存の文化や制度を攻撃する運動であった。 デュシャンはダダの中心人物というよりも、その精神を最も鋭く体現した存在である。彼は早くから絵画表現に疑問を抱き、1910年代には絵画的技巧や視覚的快楽から距離を取った。彼が提示した「レディメイド」は、工業製品や日用品をほぼ加工せずに作品として提示する行為であり、制作や美的判断を最小限に抑えた点に特徴がある。1917年の《泉》はその象徴であり、男性用小便器を展示空間に置いただけで、芸術作品の成立条件や、美術制度の権威性を露わにした。 ダダイズムが感情的で破壊的な表現を多く含んでいたのに対し、デュシャンの態度は極めて冷静で知的であった。彼は怒りや混乱を叫ぶのではなく、言葉遊びやユーモア、アイロニーを用いて、芸術の仕組みそのものをずらす戦略を取った。モナ・リザに落書きを施した《L.H.O.O.Q.》は、名画への冒涜であると同時に、芸術的価値がどこから生まれるのかを問う批評的行為である。 デュシャンとダダイズムの結びつきは、単なる反芸術運動にとどまらず、その後の現代美術の方向性を決定づけた。芸術は「美しいものを作る行為」から、「概念を提示し、問いを生み出す行為」へと大きく転換したのである。コンセプチュアル・アートやインスタレーション、パフォーマンスなど、今日の多様な表現の基盤には、デュシャンとダダイズムが提示した根本的な問いが今なお息づいている。

引用:Wikipedia

コラージュとパピエ・コレ(素材観の革命)(1912-1914頃)

引用:コラージュとは?アッサンブラージュやパピエ・コレとの違いを解説します

素材観の革命 = あらゆる現実の断片を素材化

コラージュ(仏:collage):

コラージュは、フランス語で貼りつけや糊づけを意味します。一つの画面に、印刷物や紙、布、針金、ビーズ、木の葉など、さまざまな素材を貼りつける技法、またはその技法によって作られた造形作品を指します。

パピエ・コレ(仏:papier collé):

パピエ・コレは、フランス語で「何かをのり付けした紙」という意味です。コラージュの前段階に当たる絵画技法であり、絵画作品にさまざまなものを貼り付けることで、平面から立体へと発展し、絵画と彫刻の境界線をなくした造形作品(コラージュ)へと変化しました。ペーパークラフトの一つとして人気のあるスクラップブッキングも、パピエ・コレの一つとされています。

アッサンブラージュ(仏:assemblage):

アッサンブラージュは、フランス語で寄せ集めや継ぎ合わせを意味します。コラージュやパピエ・コレの立体版とされ、日用品や不要になった廃品など、さまざまなものを集めて制作された作品や手法を指します。立体物を集めて紙に描いたものもアッサンブラージュと呼ばれます。

未来派(機械とテクノロジーを称賛)(1909-1944頃)

引用:「キュビズム」とは?有名な画家と代表作品を分かりやすく解説

未来派は、過去の芸術を徹底的に破壊し、機械化によって実現された近代社会の速さを称賛する運動です。20世紀初頭にイタリアを中心に起こった前衛芸術運動であり、文学、美術、建築、音楽など広範な分野で展開されました。1920年代からはイタリア・ファシズムに受け入れられ、戦争を『世の中を衛生的にする唯一の方法』として賛美しました。未来派が礼賛したのは、工業機械文明や都市化に欠かせない速度・運動・雑音(ノイズ)などのテーマであり、スポーツ・自動車・飛行機・都市・鉄道・機械などに表象され、究極的には戦争の賛美にもつながっていきました。未来派の芸術運動はロシアでも起こり、その後のロシア構成主義芸術やダダイズムの画家、現代音楽や演劇・バレエなどに伝播し、さまざまなジャンルの前衛芸術家たちに影響を与えました。ファシズムと結びついたことで評価されなかった時期もありましたが、現代では工業的テクノロジーを芸術に取り入れた先駆性が再評価されています。

未来主義創立宣言より

『……機銃掃射をも圧倒するかのように咆哮する自動車は、サモトラケ島の女神像《サモトラケのニケ》よりも美しい。……』(未来主義創立宣言(1909年)より引用)
フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティは1909年2月29日、パリの「フィガロ」紙に「未来主義創立宣言」を発表した。「速度の美」の華々しい称揚であり、それを体現するのが「自動車」、対照的に引き合いに出されるのが「サモトラケのニケ」である。

ウンベルト・ボッチョ-二(1882-1969)

イタリア未来派に属する画家たちの中心的存在であった。彼ら未来派の重視する要素の一つは同時性である。ここでいう同時性とは、表現する対象を様々な角度、観点から分析したときに複数の局面が同時に現れてくることをいう。これは従来のヨーローッパ絵画における伝統的価値観である、一点透視図法(ある一つの視点から見たままを描く技法)に対する重大なアンチテーゼであった。
すでにピカソやブラックがキュビスム運動によって対象を複数の面から描く方法を確立していたが、ボッチョーニら未来派の芸術家たちは、それを更に推し進めて時間的、精神的な同時性をも表現する点において新しい芸術であったのである。

ジーノ・セヴェリーニ(1887-1968)

未来派運動の中心的メンバーの一人で、主にパリとローマで活動。第一次世界大戦後は新古典主義に傾倒した時期もある。絵画のほか、モザイクやフレスコなどさまざまな技法の作品を残している。
セヴェリーニは他の未来派の画家たちほど機械のテーマには関心を示さず、「美術におけるダイナミスムの表現」という未来派の理論を表現するためにしばしば取り上げたテーマは、踊り子の姿であった。

ロシア アバンギャルド(シュプレマティズムと構成主義)

引用:ロシア・アヴァンギャルドが目指したユートピア。革命とともに生まれた前衛芸術運動とデザイン

ロシア・アヴァンギャルドは、1917年のロシア革命のさなかに生まれた芸術運動です。第一次世界大戦の長期化による経済の混乱と疲弊が国内の不満を高め、ロシア革命が起こり、300年以上続いたロマノフ王朝が倒れ、世界初の社会主義国家が誕生しました。この革命の混乱の中で生まれた前衛芸術は政治と結びつき、多くの芸術家がプロパガンダ・アートを制作しました。実験的なポスターやチラシ、映画、街頭キャンペーンのセットなどが積極的に作られました。絵画、演劇、建築、映画、写真、デザインなど多くのジャンルに影響を与え、ロシア構成主義とシュプレマティズムという2つの重要な芸術様式が生まれました。

シュプレマティズム

カジミール・マレーヴィチは、シュプレマティズム(絶対主義、至高主義)という絵画様式を生み出しました。彼は絵に込められた意味を徹底的に排除し、自然に存在する対象物を完全に除外した抽象作品を追求しました。純粋な感覚から生み出される無対象絵画こそが芸術であると主張しました。

ロシア構成主義

ロシア構成主義は、ラジミール・タトリンが鉄板や木片を使ったカウンター・レリーフの中に構成(コンストラクション)を見出したことから始まったとされています。工業的な実用物を使って抽象的な美や力学的な美を表現し、個人の直感や感情ではなく、科学的・合理的な表現を追求しました。革命後のロシアでは、工業的経済発展こそが社会的進歩と考えられていました。構成主義の芸術家たちは、実用的な分野に芸術表現を用いることで社会に貢献するという強い意思を持っていました。「社会主義国家を建設するためには、芸術は直接生産活動に参加しなければならない」と考えられていました。

ヴフテマス( 国立高等芸術技術工房 )

引用:Artwords(アートワード)

1920年から1930年の間にモスクワで設立され美術教育に当たったソ連国立高等教育機関である芸術工芸学校。芸術や建築分野で、ロシアアヴァンギャルドと呼ばれる芸術ムーブメント、シュプレマティスム(絶対主義)や構成主義(ロシア構成主義)といった運動体に呼応した新時代の革新的な美術教育機関となった。それゆえ常に政治的な圧力にさらされていく。
1918年、スヴォマス(国立自由美術工房、国立自由芸術工房)として発足するが、ウラジーミル・レーニンが2年後の1920年に、スヴォマスを改組する勅令を出して、モスクワにヴフテマスを開設。

芸術学部と産業学部を設置し、芸術学部ではグラフィック科、彫刻科、建築科、を開設。産業学部は印刷科、陶芸科、テキスタイルデザイン科、木工科、金属加工科を開設した。常時で100名の教育スタッフを抱え、学生は往事は約2,700名が在籍している。いずれの科も基礎造形課程に重きを置き、建築や工芸、産業デザイン、 工業デザインを重視する、一見バウハウスに似た芸術教育を導入している。
生産に役立つ技能を持った、新しいタイプの芸術家=職人を育成する目的で芸術教育が行なわれ、構成主義および合理主義建築の中心的役割を担った。25年のパリ万国博覧会では学生や教員のデザインが数々の賞を受賞してロシアにおける構成主義を世界に喧伝した。

[ 教員 ]

ラジミール・タトリン

画家、彫刻家、建築家、デザイナー、舞台美術家

アレクサンドル・ロトチェンコ

芸術家、絵画、デザイン、舞台芸術、写真など

コンスタンチン・メーリニコフ

20世紀初頭におけるロシア構成主義建築家

ロシア アバンギャルドの人々

引用:ロシア・アヴァンギャルドが目指したユートピア。革命とともに生まれた前衛芸術運動とデザイン

カジミール・マレービッチ(1879-1935)

ウクライナ・ソ連の芸術家。特に画家として知られ、戦前に抽象絵画を手掛けた最初の人物である。カジミール・マレーヴィチは、シュプレマティズム(絶対主義、至高主義)という絵画様式を生み出した。マレーヴィチは絵に込められた意味を徹底的に排した抽象的作品を追求。自然に存在する対象物を完全に排除し、純粋な感覚から生み出す無対象絵画こそ芸術である、と主張した。対象を持たないことで鑑賞者に「考えさせる」ということを望み、そこに生まれる純粋な感情こそがアートと考えた。シュプレマティズムは過去の芸術を完全に否定することで新しい価値を生み出し、抽象絵画の1つの到達点であるとも評価された。
それまでの絵画は対象を持っており、鑑賞者は基準となる価値観を持ち、上手い下手、好き嫌いという評価をつけ、鑑賞者側に主導権があった。黒の正方形は絵自体が主導権を持ちます。それによって観賞者は「この黒の中に宇宙の真理が隠されているのかも?」というような、既存の価値観では評価できない状態になる。

エル・リシツキー(1890-1941)

ロシアのグラフィックデザイナー、ブックデザイナー、展示デザイナー、建築家、写真家。20世紀におけるグラフィックデザインの祖といわれるほど、数多くの革新的なデザインを生み出したエル・リシツキーは、「鑑賞するものに行動を促す」というテーマを生涯持ち続けた。

引用:Wikipedia

アレクサンドル・ロトチェンコ(1871-1951)

ロシア構成主義の芸術家。絵画、デザイン、舞台芸術、写真など、幅広くに渡って活躍した。
芸術が「生活とともに機能する」ことを追求し続け、ロシア構成主義の中心人物として活躍。ロトチェンコが手がけたポスターデザインは、どれも現在の広告デザインのお手本となるようなものばかりであり、幾何学図形やフォトモンタージュを駆使したシンプルなメッセージと構図は、見たものに力強い印象を残す。

引用:ノラの絵画の時間

コンスタンチン・メーリニコフ(1890-1974)

ロシアの建築家。20世紀初頭におけるロシア構成主義建築、アバンギャルドの巨人のひとり。1923年全ロシア農業博覧会のマホルカ・パビリオンの設計を皮切りに、メーリニコフは斬新かつ革新的な設計プランを発表し注目を集めるようになった。1924年レーニン廟、1925年パリ現代産業装飾芸術万国博覧会ソ連パビリオンを発表し、特にパリのソ連パビリオンは、世界的にも注目を浴びた。

引用:Wikipedia

モンタージュ理論

引用:ロシア・アヴァンギャルドが目指したユートピア。革命とともに生まれた前衛芸術運動とデザイン

1920年代のソ連で活発に提唱、議論された映画理論。「モンタージュ」はもともとフランス語で、「機械や道具の組立て、設置、はめ込み」を意味する。映画の場合、広義にはフィルムの編集技法に含まれる。
エイゼンシュテインは、アトラクションのモンタージュ、オーバートーンのモンタージュ、垂直のモンタージュ等々、サイレント映画期からトーキー映画期にかけて(1920年代から40年代)、さまざまなモンタージュ理論を考察し、自己の作品に応用し、確立した。
ソ連のモンタージュ理論は、材料としての断片的画面をどのように組織化するか、組織化した一連の画面はどのように観客へ作用するのかといった論点が共通していたといえる。

戦艦ポチョムキン

『戦艦ポチョムキン』は、1925年に製作・公開されたソビエト連邦のサイレント映画です。セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の長編第2作であり、第1次ロシア革命20周年を記念して制作されました。1905年に起きた戦艦ポチョムキンの反乱を描いており、『オデッサの階段』と呼ばれる市民虐殺の場面は映画史上有名なシーンの一つで、さまざまなオマージュやパロディが生まれています。

戦艦ポチョムキン

1925年に製作・公開されたソビエト連邦のサイレント映画。セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の長編第2作で、「第1次ロシア革命20周年記念」として製作された。 1905年に起きた戦艦ポチョムキンの反乱を描いたもので、「オデッサの階段」と呼ばれるオデッサの市民を虐殺する場面は映画史上有名なシーンの一つであり、様々なオマージュやパロディを生んでいる。
 当時のソ連の映画人が提唱したモンタージュ理論を確立した作品として知られ、エイゼンシュテインが唱える「アトラクションのモンタージュ」などといった独創的なモンタージュ理論を実践しており、世界各地で大きな反響を受けるとともに、後の映画人にも多大な影響を与えた。現在に至るまで映画史的に非常に重要な作品として評価されており、『國民の創生』、『市民ケーン』とともに映画芸術に革命をもたらした画期的作品とされる。